有村次左衛門 ~桜田門外で大老・井伊直弼の首を取った男~
日本史の実行犯 「あの方を斬ったの…それがしです」
日本史の大きな転換点となった「桜田門外の変」―――。この時、大老・井伊直弼(いい・なおすけ)の首を取った人物こそ、有村次左衛門(ありむら・じざえもん)という23歳の若者でした。
薩摩国高麗町(鹿児島県鹿児島市高麗町)に生まれた次左衛門は、14歳で薩摩藩に出仕した後、21歳となった安政5年(1858年)に江戸へ出ました。中小姓(ちゅうごしょう)役として三田の薩摩藩邸に勤め、千葉周作の道場へ通って北辰一刀流を学ぶ一方で、朝廷を軽んじる江戸幕府の政治に疑問を抱き、尊王攘夷派として同志の水戸藩士と交流を重ねていきました。
ところが、大老に就任した井伊直弼はそういった尊王攘夷派の勢力に対して「安政の大獄」と呼ばれる大弾圧を行い、有力な尊王攘夷派の人物たちは謹慎、捕縛、追放、斬首などの重刑に処されてしまいました。
これに憤激した次左衛門は薩摩藩を脱藩し、同志の水戸の脱藩浪士17名と共に井伊直弼の暗殺を実行に移すこととなったのです。
「岩金(いわがね)も 砕けざらめや武士(もののふ)の 国の為にと思ひきる太刀」。
襲撃を決めた次左衛門は、この辞世の句をしたためた短冊を故郷の家族に送りました。「国を想う武士の太刀を前に砕かれない岩や金もない」。次左衛門の決意をうかがい知れます。
そして時は、安政7年(1860年)3月3日、五ツ半刻(午前9時)―――。この時期には珍しい雪が昨夜から降りしきり、外桜田門の杵築藩邸の前で通行人を装っている次左衛門の周りにも雪が降り積もっていました。
尾張徳川家の行列が過ぎてから半刻(1時間)程後、ここから3、4町(≒327~436m)程離れた井伊家の屋敷の門が開き、直弼を乗せた駕籠を中心にした井伊家の行列が外桜田門へと歩き始めました。
行列が外桜田門に近づくと、まず森五六郎が直訴を装って行列の先頭に駆け寄りました。それを取り押さえようとした彦根藩士は、即座に森に斬られてしまいます。周囲は騒然となり、行列の先頭に注意が払われた瞬間、一発の銃声が鳴り響きました。
それを合図にしていた浪士たちは、井伊家の行列に一斉に斬りかかりました。
「チェストー!!!」
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